01
THE LIFE YOU LIVED
異世界で生きた、あなたの一生。
雨の夕方、あなたは駅前の横断歩道で、信号を無視した車が水たまりを跳ね上げながら歩道へ突っ込むのを見た。運転手はハンドルを切り損ね、傘を差した子どもが立ちすくんでいる。あなたは考えるより先に駆け寄り、その子を抱えてガードレールの内側へ押し出した。子どもは転んだだけで済んだが、あなたの背中には車の衝撃が来た。
濡れたアスファルトに頬をつけたまま、あなたは遠ざかる泣き声を聞いた。救急車のサイレンが近づき、誰かが「もう大丈夫だ」と繰り返した。あなたは返事をしようとして、息を吸えなかった。怖かったし、まだ帰りたい場所もあった。それでも、子どもが泣いているのを聞いて、最後に少しだけ安心した。
次に目を開けたとき、あなたは海の底にいた。目は閉じているのに、岩の輪郭が水の震えで分かる。小さな身体を包む八本の触腕は自分の意思で動くものの、どの腕がどちらを向いているのか、最初はさっぱりだった。クラーケンの卵から生まれたのだと、母親の低い声が頭の中に響いた。母は人の言葉を知らない。けれど、触腕でそっと背を支える仕草は、あなたが知っていたものとよく似ていた。
幼いクラーケンの暮らしは、岩穴の周囲を泳ぎ、貝を割り、潮の流れを覚えることだった。あなたの身体は小魚を捕らえるのにも苦労した。生きた獲物を傷つけるのが怖くて、食べるのは落ちた貝や海藻ばかり。母はそれを叱らず、腹が減ったら捕るのだと教えた。弱いものを守ることと、誰も傷つけないことは同じではない。その言葉は、長くあなたの胸に残った。
七歳のころ、岩穴に嵐の波が入り、幼い弟が外へさらわれた。あなたは追いかけたが、波に押されて何もできない。必死に腕を広げると、周囲の海水が細い帯になり、渦を巻いて弟の胴を包んだ。潮鎖と呼ばれる力だった。弟を引き戻せた代わりに、あなたの身体から水分が抜け、触腕がしおれた。母が海水を含ませてくれなければ、腕は動かなくなっていた。力には代価がある。幼いあなたにも、それだけははっきり分かった。
成長したあなたは、岩礁の外れにある潮見礁で暮らすようになった。大きな身体は網を引き裂き、船底を割れる。だから人間の船が見えると、まず距離を取った。人間も、海に潜む影を恐れて銛を向けることがあった。あなたは近づかず、難破した船の積み荷を浅瀬へ押し戻すだけにした。ところがある冬、嵐で小舟が転覆し、乗っていた人々が岩にしがみついていた。あなたは潮鎖で波を押し分け、触腕を橋のように差し出した。人々を岸へ運んだあと、彼らが置いていった食料を受け取ることはしなかった。ただ、濡れた布で腕を巻いてくれた年老いた女性の手の温かさは覚えていた。
その女性は港町の薬師、エダだった。彼女は話し声の振動を覚え、少しずつあなたと意思を通わせた。町の人々は、あなたを海の怪物と呼ぶ者と、船を救った番人と呼ぶ者に分かれた。エダはどちらにも賛成せず、「ナギ」と呼び始めた。あなたも彼女の薬草籠を見つけたとき、浅瀬まで運んで返した。人間の町へ上がることはなかったが、満ち潮の夜には、波打ち際で薬草の話や、海鳥の愚痴を聞いた。
あなたが五十歳になった年、港に新しい防波堤が造られた。工事で潮の通り道がふさがれ、魚が減り、クラーケンの子どもたちが餌を求めて網を壊した。人間たちは怪物の襲撃だと考え、銛を用意した。あなたは町を責めるかわりに、エダを通して潮の変化を伝えた。町の長は、海の話を怪物の言い分として片づけた。あなたはひとりで堤の根元へ潜り、潮鎖を細く巻きつけて、石を崩さずに水の抜け道を作った。力を使いすぎて二本の触腕が動かなくなり、数か月、岩穴で動けずに過ごした。町では網が少しずつ満ち始めたが、あなたの名を信じる人は増えなかった。
やがて、港の子どもたちがあなたに貝殻を置いていくようになった。エダは年を取り、話す声が小さくなったが、潮の匂いを教える約束だけは続けた。彼女が亡くなった日、あなたは町の明かりが消えるまで沖で待った。悲しみをすぐに役目へ変えることはできなかった。しばらくは船を助ける気にもなれず、網の切れ端を見ても目をそらした。それでも、春に迷子の漁師を見つけ、岸まで押し戻した。助けた相手が礼を言うとは限らない。助ける理由が、礼をもらうことでもない。そのことを、あなたはようやく自分のものにした。
百年ほど後、海底火山の噴火で大きな波が港を襲った。あなたは港の人々に沖へ逃げるよう、船を一艘ずつ浅瀬へ押し出した。最後に残った古い防波堤が崩れかけ、潮鎖を張れば波をそらせると分かった。けれど、身体の水分はもう戻りにくく、力を使えば自分の命を削る。あなたは迷った。守るのは町だけではない。海の底にいる仲間も、これから生まれる子どもたちもいる。堤を全部支えるのではなく、波の向きを少し変えれば逃げる時間は稼げる。あなたはその細い可能性を選び、潮鎖を放った。
波は港の外へ流れ、町は大きな被害を免れた。あなたは生き延びたが、触腕のうち三本は力を失い、潮の流れを読む感覚も鈍った。町の人々は翌年、魚を取りすぎない決まりを作り、海底の抜け道を壊さない約束を交わした。あなたは長老のように崇められることを断り、潮見礁で若いクラーケンに潮の読み方を教えた。人間の船には、近づきすぎず、危険なときだけ合図を送るよう伝えた。
二百十三歳の晩年、あなたは浅瀬の岩に身を預け、海面に映る月を見ていた。昔助けた子どもの子孫が、漁の帰りに波打ち際へ貝を置いていった。あなたはもう、それを拾う力もなかった。短い言葉を残し、若い仲間たちが見守るなかで、呼吸は静かに止まった。港には、あなたを恐れた人も、友と呼んだ人もいた。誰もが同じ思いを持ったわけではない。それでも、潮の通り道は残り、海と町は互いを奪い尽くさずに暮らしていった。
濡れたアスファルトに頬をつけたまま、あなたは遠ざかる泣き声を聞いた。救急車のサイレンが近づき、誰かが「もう大丈夫だ」と繰り返した。あなたは返事をしようとして、息を吸えなかった。怖かったし、まだ帰りたい場所もあった。それでも、子どもが泣いているのを聞いて、最後に少しだけ安心した。
次に目を開けたとき、あなたは海の底にいた。目は閉じているのに、岩の輪郭が水の震えで分かる。小さな身体を包む八本の触腕は自分の意思で動くものの、どの腕がどちらを向いているのか、最初はさっぱりだった。クラーケンの卵から生まれたのだと、母親の低い声が頭の中に響いた。母は人の言葉を知らない。けれど、触腕でそっと背を支える仕草は、あなたが知っていたものとよく似ていた。
幼いクラーケンの暮らしは、岩穴の周囲を泳ぎ、貝を割り、潮の流れを覚えることだった。あなたの身体は小魚を捕らえるのにも苦労した。生きた獲物を傷つけるのが怖くて、食べるのは落ちた貝や海藻ばかり。母はそれを叱らず、腹が減ったら捕るのだと教えた。弱いものを守ることと、誰も傷つけないことは同じではない。その言葉は、長くあなたの胸に残った。
七歳のころ、岩穴に嵐の波が入り、幼い弟が外へさらわれた。あなたは追いかけたが、波に押されて何もできない。必死に腕を広げると、周囲の海水が細い帯になり、渦を巻いて弟の胴を包んだ。潮鎖と呼ばれる力だった。弟を引き戻せた代わりに、あなたの身体から水分が抜け、触腕がしおれた。母が海水を含ませてくれなければ、腕は動かなくなっていた。力には代価がある。幼いあなたにも、それだけははっきり分かった。
成長したあなたは、岩礁の外れにある潮見礁で暮らすようになった。大きな身体は網を引き裂き、船底を割れる。だから人間の船が見えると、まず距離を取った。人間も、海に潜む影を恐れて銛を向けることがあった。あなたは近づかず、難破した船の積み荷を浅瀬へ押し戻すだけにした。ところがある冬、嵐で小舟が転覆し、乗っていた人々が岩にしがみついていた。あなたは潮鎖で波を押し分け、触腕を橋のように差し出した。人々を岸へ運んだあと、彼らが置いていった食料を受け取ることはしなかった。ただ、濡れた布で腕を巻いてくれた年老いた女性の手の温かさは覚えていた。
その女性は港町の薬師、エダだった。彼女は話し声の振動を覚え、少しずつあなたと意思を通わせた。町の人々は、あなたを海の怪物と呼ぶ者と、船を救った番人と呼ぶ者に分かれた。エダはどちらにも賛成せず、「ナギ」と呼び始めた。あなたも彼女の薬草籠を見つけたとき、浅瀬まで運んで返した。人間の町へ上がることはなかったが、満ち潮の夜には、波打ち際で薬草の話や、海鳥の愚痴を聞いた。
あなたが五十歳になった年、港に新しい防波堤が造られた。工事で潮の通り道がふさがれ、魚が減り、クラーケンの子どもたちが餌を求めて網を壊した。人間たちは怪物の襲撃だと考え、銛を用意した。あなたは町を責めるかわりに、エダを通して潮の変化を伝えた。町の長は、海の話を怪物の言い分として片づけた。あなたはひとりで堤の根元へ潜り、潮鎖を細く巻きつけて、石を崩さずに水の抜け道を作った。力を使いすぎて二本の触腕が動かなくなり、数か月、岩穴で動けずに過ごした。町では網が少しずつ満ち始めたが、あなたの名を信じる人は増えなかった。
やがて、港の子どもたちがあなたに貝殻を置いていくようになった。エダは年を取り、話す声が小さくなったが、潮の匂いを教える約束だけは続けた。彼女が亡くなった日、あなたは町の明かりが消えるまで沖で待った。悲しみをすぐに役目へ変えることはできなかった。しばらくは船を助ける気にもなれず、網の切れ端を見ても目をそらした。それでも、春に迷子の漁師を見つけ、岸まで押し戻した。助けた相手が礼を言うとは限らない。助ける理由が、礼をもらうことでもない。そのことを、あなたはようやく自分のものにした。
百年ほど後、海底火山の噴火で大きな波が港を襲った。あなたは港の人々に沖へ逃げるよう、船を一艘ずつ浅瀬へ押し出した。最後に残った古い防波堤が崩れかけ、潮鎖を張れば波をそらせると分かった。けれど、身体の水分はもう戻りにくく、力を使えば自分の命を削る。あなたは迷った。守るのは町だけではない。海の底にいる仲間も、これから生まれる子どもたちもいる。堤を全部支えるのではなく、波の向きを少し変えれば逃げる時間は稼げる。あなたはその細い可能性を選び、潮鎖を放った。
波は港の外へ流れ、町は大きな被害を免れた。あなたは生き延びたが、触腕のうち三本は力を失い、潮の流れを読む感覚も鈍った。町の人々は翌年、魚を取りすぎない決まりを作り、海底の抜け道を壊さない約束を交わした。あなたは長老のように崇められることを断り、潮見礁で若いクラーケンに潮の読み方を教えた。人間の船には、近づきすぎず、危険なときだけ合図を送るよう伝えた。
二百十三歳の晩年、あなたは浅瀬の岩に身を預け、海面に映る月を見ていた。昔助けた子どもの子孫が、漁の帰りに波打ち際へ貝を置いていった。あなたはもう、それを拾う力もなかった。短い言葉を残し、若い仲間たちが見守るなかで、呼吸は静かに止まった。港には、あなたを恐れた人も、友と呼んだ人もいた。誰もが同じ思いを持ったわけではない。それでも、潮の通り道は残り、海と町は互いを奪い尽くさずに暮らしていった。
そして、物語は終わった。
海は誰かのものじゃない。次の潮も、みんなで使っておくれ。




