01
THE LIFE YOU LIVED
異世界で生きた、あなたの一生。
雨は、帰宅を急ぐ人たちの傘を叩いていた。あなたは駅前の横断歩道で、信号を見落とした小学生が車道へ踏み出すのを見た。右折してきた車の運転手も、雨粒で気づくのが遅れている。あなたは鞄を投げ出して子どもの腕をつかみ、歩道へ押し戻した。子どもは転び、あなたはその肩をかばうように身をひねった。
ブレーキの音がした。けれど、車は濡れた路面を滑り、あなたの脇腹を強く打った。歩道の人たちが駆け寄るなか、あなたは泣き出した子どもに「大丈夫、ここにいるよ」と告げた。救急車の音が遠くから近づき、あなたの意識はそこで途切れた。
次に聞こえたのは、母親の笑い声と、雨とは違う柔らかな水音だった。あなたは石造りの家で生まれ、母の腕の中で、頭の上にある三角の耳をぴくりと動かした。鏡に映った赤ん坊には、ふさふさした尾もある。ここが別の世界だと分かったのは、言葉を覚えてからだった。あなたの名はニア。猫獣人の男の子だった。
町は川沿いにあり、家々の地下を細い水路が走っていた。畑へ水を送るためのものだが、落ち葉や泥が詰まれば、雨の日に家へ水が逆流する。父は水路の修理をする職人で、母は市場で布を売っていた。二人はあなたの耳や尾を珍しがらず、転んで尾を打てば薬を塗り、夜更かしをすれば叱った。英雄になるより、朝に起きて仕事を覚えるほうが先だった。
五つのころ、父に連れられて水路の点検へ行った。暗い地下道でも、あなたには石の継ぎ目が見えた。さらに、壁の向こうで鳴る小さな音が気になった。水音の裏に、軽い足音が二つ。あなたが父の袖を引くと、隣の家の幼児が、落ちた木箱を追って水路の縁に立っていた。父が駆け戻り、子どもを抱き上げた。あなたは自分の耳が、ただ大きいだけではないと知った。
その力を、父は「足音聞き」と呼んだ。足の重さや歩く速さ、床の震えを聞き分ける特技だ。猫獣人の耳と夜目、すばやく動ける体が合わさると、暗い場所の見回りに役立つ。ただし、風や鐘の音が重なると、聞こえるものがいっぺんに押し寄せた。無理をした晩には頭が痛み、耳を押さえて寝込んだ。父は「聞くのをやめるのも仕事だ」と教えた。
あなたは父の手伝いをするようになった。水路の詰まりを調べ、泥をさらい、石のふたを運ぶ。町の人たちは、猫獣人なら暗闇でも何でも分かると思い込んでいた。ある日、見回り先で「壁の向こうに盗人がいる」と決めつけられたことがある。聞こえたのは、病気の老人が咳をする音だけだった。あなたは依頼人にそう伝え、老人の家の戸を叩いた。助けを呼ぶ声がかすれていたので、町医者を呼んだ。礼を言われた一方で、依頼人には「役に立たない耳だ」と小言を言われた。母は夕食に焼き魚を一匹多く出し、あなたは少し機嫌を直した。
十七歳の春、父は腰を痛め、長い地下道へ入れなくなった。町では大雨の予報が出ていた。古い水路には、東の低地へ水を流す分岐がある。そこに詰まりがあれば、夜のうちに市場と住居が浸かる。町長は、修理工をまとめて通路へ入れるには時間がかかると言った。あなたは、まず自分が水路を調べ、危険な場所だけを知らせると申し出た。怖くなかったわけではない。だから、ひとりで奥まで行かず、若い職人のリセと地上の見張りを連れていく条件をつけた。
地下では、雨水がひざまで迫っていた。あなたは耳を澄まし、流れの音の弱い場所を探した。すると、石壁の向こうから、断続的な爪音がした。分岐の木戸に、荷車から落ちた鉄の輪が挟まっている。水圧で木戸がしなり、今にも折れそうだった。あなたはリセに合図し、敏捷さを生かして狭い通路を抜け、横穴から木戸の留め金へ回った。暗がりでも見えたのは、磨り減った金具と、そこへ巻き込まれた縄だった。
「輪を外したら水が来る。先に上の人を逃がして」と、あなたはリセに叫んだ。返事を聞き届け、耳を塞ぐほどの水音に耐えながら、鉄輪を棒で押し上げた。縄が切れ、木戸は一度大きく揺れたが、リセが留め具を差し込む。水は別の水路へ流れ、町の低地は守られた。あなたの耳には数日、鐘の音が響き続けた。医者は、当分は夜の見回りを減らせと言った。あなたは悔しがりつつ、その忠告を聞いた。
父が引退してから、あなたは水路番になった。リセとは仕事仲間として暮らしを築き、やがて夫婦になった。二人は子どもを二人育てたが、耳の鋭さを受け継いだ子も、そうでない子もいた。あなたはどちらにも、水路の仕事を継ぐよう迫らなかった。長女は薬師になり、次男は船大工になった。町では大きな戦争も、名を残す冒険もなかった。その代わり、春には市場で魚を買い、秋には屋根の雨漏りを直し、冬には家族で温かい鍋を囲んだ。
四十年が過ぎると、あなたの足は若いころほど軽くなくなった。耳も高い音を聞き分けにくくなり、夜目は少しずつ衰えた。それでも水路番の若者に、音を聞く前に地図を見ること、分からないときは仲間を呼ぶことを教えた。あなたが現場に出るのは、危険な工事の見届けや、若者が迷ったときだけになった。以前なら一人で走った場所を、今は杖をつき、ゆっくり歩いた。
七十六歳の冬、あなたは家の寝台で家族に囲まれていた。窓の外では、雪どけ水が軒を流れている。耳を澄ませると、遠くの水路がいつも通りに鳴っていた。リセが手を握り、孫が「明日も大丈夫?」と尋ねた。あなたは笑い、昔から言ってきた答えを口にした。「明日の水路も、きっと大丈夫だ。」その夜、あなたは眠るように息を引き取った。町は翌朝も水をくみ、家族は台所で朝食を作った。あなたが守ったものは、英雄の名声ではなく、誰かが安心して迎える普通の朝だった。
ブレーキの音がした。けれど、車は濡れた路面を滑り、あなたの脇腹を強く打った。歩道の人たちが駆け寄るなか、あなたは泣き出した子どもに「大丈夫、ここにいるよ」と告げた。救急車の音が遠くから近づき、あなたの意識はそこで途切れた。
次に聞こえたのは、母親の笑い声と、雨とは違う柔らかな水音だった。あなたは石造りの家で生まれ、母の腕の中で、頭の上にある三角の耳をぴくりと動かした。鏡に映った赤ん坊には、ふさふさした尾もある。ここが別の世界だと分かったのは、言葉を覚えてからだった。あなたの名はニア。猫獣人の男の子だった。
町は川沿いにあり、家々の地下を細い水路が走っていた。畑へ水を送るためのものだが、落ち葉や泥が詰まれば、雨の日に家へ水が逆流する。父は水路の修理をする職人で、母は市場で布を売っていた。二人はあなたの耳や尾を珍しがらず、転んで尾を打てば薬を塗り、夜更かしをすれば叱った。英雄になるより、朝に起きて仕事を覚えるほうが先だった。
五つのころ、父に連れられて水路の点検へ行った。暗い地下道でも、あなたには石の継ぎ目が見えた。さらに、壁の向こうで鳴る小さな音が気になった。水音の裏に、軽い足音が二つ。あなたが父の袖を引くと、隣の家の幼児が、落ちた木箱を追って水路の縁に立っていた。父が駆け戻り、子どもを抱き上げた。あなたは自分の耳が、ただ大きいだけではないと知った。
その力を、父は「足音聞き」と呼んだ。足の重さや歩く速さ、床の震えを聞き分ける特技だ。猫獣人の耳と夜目、すばやく動ける体が合わさると、暗い場所の見回りに役立つ。ただし、風や鐘の音が重なると、聞こえるものがいっぺんに押し寄せた。無理をした晩には頭が痛み、耳を押さえて寝込んだ。父は「聞くのをやめるのも仕事だ」と教えた。
あなたは父の手伝いをするようになった。水路の詰まりを調べ、泥をさらい、石のふたを運ぶ。町の人たちは、猫獣人なら暗闇でも何でも分かると思い込んでいた。ある日、見回り先で「壁の向こうに盗人がいる」と決めつけられたことがある。聞こえたのは、病気の老人が咳をする音だけだった。あなたは依頼人にそう伝え、老人の家の戸を叩いた。助けを呼ぶ声がかすれていたので、町医者を呼んだ。礼を言われた一方で、依頼人には「役に立たない耳だ」と小言を言われた。母は夕食に焼き魚を一匹多く出し、あなたは少し機嫌を直した。
十七歳の春、父は腰を痛め、長い地下道へ入れなくなった。町では大雨の予報が出ていた。古い水路には、東の低地へ水を流す分岐がある。そこに詰まりがあれば、夜のうちに市場と住居が浸かる。町長は、修理工をまとめて通路へ入れるには時間がかかると言った。あなたは、まず自分が水路を調べ、危険な場所だけを知らせると申し出た。怖くなかったわけではない。だから、ひとりで奥まで行かず、若い職人のリセと地上の見張りを連れていく条件をつけた。
地下では、雨水がひざまで迫っていた。あなたは耳を澄まし、流れの音の弱い場所を探した。すると、石壁の向こうから、断続的な爪音がした。分岐の木戸に、荷車から落ちた鉄の輪が挟まっている。水圧で木戸がしなり、今にも折れそうだった。あなたはリセに合図し、敏捷さを生かして狭い通路を抜け、横穴から木戸の留め金へ回った。暗がりでも見えたのは、磨り減った金具と、そこへ巻き込まれた縄だった。
「輪を外したら水が来る。先に上の人を逃がして」と、あなたはリセに叫んだ。返事を聞き届け、耳を塞ぐほどの水音に耐えながら、鉄輪を棒で押し上げた。縄が切れ、木戸は一度大きく揺れたが、リセが留め具を差し込む。水は別の水路へ流れ、町の低地は守られた。あなたの耳には数日、鐘の音が響き続けた。医者は、当分は夜の見回りを減らせと言った。あなたは悔しがりつつ、その忠告を聞いた。
父が引退してから、あなたは水路番になった。リセとは仕事仲間として暮らしを築き、やがて夫婦になった。二人は子どもを二人育てたが、耳の鋭さを受け継いだ子も、そうでない子もいた。あなたはどちらにも、水路の仕事を継ぐよう迫らなかった。長女は薬師になり、次男は船大工になった。町では大きな戦争も、名を残す冒険もなかった。その代わり、春には市場で魚を買い、秋には屋根の雨漏りを直し、冬には家族で温かい鍋を囲んだ。
四十年が過ぎると、あなたの足は若いころほど軽くなくなった。耳も高い音を聞き分けにくくなり、夜目は少しずつ衰えた。それでも水路番の若者に、音を聞く前に地図を見ること、分からないときは仲間を呼ぶことを教えた。あなたが現場に出るのは、危険な工事の見届けや、若者が迷ったときだけになった。以前なら一人で走った場所を、今は杖をつき、ゆっくり歩いた。
七十六歳の冬、あなたは家の寝台で家族に囲まれていた。窓の外では、雪どけ水が軒を流れている。耳を澄ませると、遠くの水路がいつも通りに鳴っていた。リセが手を握り、孫が「明日も大丈夫?」と尋ねた。あなたは笑い、昔から言ってきた答えを口にした。「明日の水路も、きっと大丈夫だ。」その夜、あなたは眠るように息を引き取った。町は翌朝も水をくみ、家族は台所で朝食を作った。あなたが守ったものは、英雄の名声ではなく、誰かが安心して迎える普通の朝だった。
そして、物語は終わった。
明日の水路も、きっと大丈夫だ。




